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【座談会】神田学生街に商う③

往時の記憶

纐纈 明治大学の建物というのは一つの遊び場で、バスケットボールの体育館、地下にプール、レスリング場もあったし、ボクシングのリングもあった。活躍している選手たちもいたね。古い明治大学の建物の中はフルに見て回りましたよ。階段が古くてすり減っているんだよね。

校條 手すりなんてつるつるでしたよね。

──大学の中に入るのに抵抗はありませんでしたか。

纐纈 まったく抵抗なく、問題もなかったです。別に追いかけられたこともないしね。大学に入るのにクレームがつきはじめたのはデモが頻発するようになってからかな。それまではまったく自由に行き来できました。
 私の住まいからすぐ目の前に大学の裏口がありました。そこを通るのが正門を利用するよりも圧倒的に多くて、マンドリン倶楽部や映画研究部、写真部、書道部などいろいろな部室を通ることになった。

──本当に目と鼻の先ですよね。

纐纈 マンドリン倶楽部の練習の音なんかもよく聞こえましたよ。古賀政男さんはうちの店にも来たことがあります。だからなんとなく親しみを持っていました。

──古賀政男先生は古典籍に興味があったのですか。

纐纈 はい。古賀さんは最晩年、私が父と古書会館にでかけていたときに、古賀さんが店に来られました。会いたいということで父と店に戻って話をしたことがあります。その後まもなく古賀さんは亡くなられました。ご自分にゆかりのある場所をずっとめぐっている、といった感じでした。

──最後に思い出の場所をめぐっておられたのですか。いま古賀政男先生の話が出てきましたが、石澤さんのお店に古賀さんが眼鏡の調整に来たなんてことはありますか。

石澤 それは記憶にないですけど、うちの店には、野球部の監督を長く務めた島岡吉郎さんがよくいらしていました。体育会や応援団のお客さんも多かったです。

──島岡監督は眼鏡をかけていたんですか。

石澤 かけていました。眼鏡のつるが長くないと合わない方でした。普通の眼鏡では合いませんでしたね。

纐纈 島岡さんはとても学生の面倒見が良かったです。よく駿河台下の鰻屋で学生の就職相談に乗っていましたよ。

──古賀先生も島岡監督も、街の界隈に顔を出していたんですね。昔の卒業生の方は地元の店に通ったりきちんと挨拶されたりで、地元とのお付き合いが濃密だった。

船曵 大和屋の先々代の祖父母が、それこそ昨日のことのように、応援団の方々が下駄を誂えに来られたとか、下駄好きの学生さんたちがキャンパス内でも常に下駄を使ってくれていたんだよ、といった話を嬉しそうにしてくれます。いまの学生さんたちにももっともっと来てもらえるお店にならなくちゃいけないと思っています。

石澤 当時は人付き合いが濃かったですよ。眼鏡を買うわけではなくても、素通りしないで、話をしに寄ってくれましたよ。戦後初代の応援団長だった八巻恭介さん(のち山梨県議会議長・須玉町長)は学生時代からずっと店に来てくれました。

戦後すぐの時期、食料がなくてメリケン粉が配給になっていたような頃、米なんてめったに口にできない。ようやく手に入れた玄米を一升瓶に入れて棒で精米するような時代です。そんな時に私の両親が、「学生さんたちがお腹減っているだろうから」と家に誘って、すいとんをご馳走していましたね。いまから思えばご馳走なんてもんじゃないですが戦後食料不足の時代でしたからね、両親は大勢の学生さんたちに食べさせていました。
 両親が亡くなってからも、その時分に学生だった方々が「あのとき、お前の親父にお世話になったから」と、私を食事や旅行に誘ってくださるなんてこともありました。いまでも、その時の学生さんのご家族の方が遠方から眼鏡をつくりに来てくださったりしています。昔はそのような地元と学生さんとのお付き合いがあったんですね。いまは残念ですけど、街と大学でそういったことがないですね。

纐纈 昔は先生たちも大らかでした。六大学野球の調子が良かったら「授業はやめて神宮に行こう!」なんて言っていましたよね。

石澤 野球で優勝したら提灯行列などと街も賑やかでした。いまよりずっと街と大学関係者との会話も多かったと思いますね。

纐纈 以前は優勝すれば神宮から駿河台までずっとパレードして来たよね。いまはこの周辺を少し回るだけでパレードが終わってしまうのも少し残念です。

校條 私の時代も神宮から提灯行列をやっていました。リバティタワーができた頃からやめたのかもしれないですね。

纐纈 学生が神宮に野球を見に行かなくなったということもあるのかな。

──野球に限らず、学生スポーツの応援に出かける学生の数は減っています。最近課題になっていますが、明治大学校歌を歌えない学生が増えているのも、スポーツ観戦の機会が減っていることが影響していると思います。

校條 この間、大学ラグビー選手権の準決勝と決勝を観に行ったんですが、学生らしいお客さんが少なくて、私たちの年代のOB・OGばかりが目に付きます。六大学野球を私は年間一五、六試合観戦するのですが、学生が少ない…。土曜日は授業があるんですよね。

──はい。昔は先生が「これから明早戦だから応援に行け、単位は心配するな!」という話は聞きましたね。

纐纈 そうして先生と学生が一緒に応援に行ったんだよね。

稲垣 ちなみに優勝パレードのとき、私はいつも学生と隊列の最後を歩いて、ゴミ拾いをしながら明治まで来ていました。

──ありがとうございます。パレード一つとっても、街の皆様へのご挨拶はもとより、いろいろご協力を賜って実施しているということを改めて実感します。

 

明治大学進学まで

──明治大学に入学されるまでのご経歴をご紹介いただけますでしょうか。

石澤 千代田区立小川小学校を卒業して、そのあと文京区の京華中学校・高校に通いました。私の姉が京華女子中学に通っていたので、家族は「京華に行きなさい」という感じでしたね。そこから明治大学に進んだのは私の姉の夫、つまり義理の兄が明治大学を卒業したということが大きいです。当時、明治大学はスキーがすごく強かったんですが、義兄の釣井賢はスキー部で複合の選手として大活躍しました。

それに加えてお店に明治の応援団や体育会の学生が通ってくるものですから、そうしたらもう行くところは明治しかないんですよ。

──「明治しかない」、いいお言葉ですね。スキー選手で活躍されたお義兄様のことはもちろん、お客さんで明治の学生や先生方も多いですし、学生の面倒をご両親が見てこられたりとか、いろいろなつながりがあって進学されたっていうことですね。

石澤 そうです。もう明治大学しかなかったんです。私の弟二人は明治大学付属中学、高校、大学と進みました。私の息子も孫の一人も明治大学を卒業しています。

纐纈 日本で大学のある地元に、その大学で学んだ人が多いというのは明治大学特有じゃないかな。ほかの大学だとあまり話に聞かないような気がする。かつて駿河台に明治大学付属高等学校・中学校があったというのは、そのことにかなり関係していますよね。

──今回みたいな神田お仕事しばりで、かつ明治大学校友しばりという、ダブルしばりの座談会はなかなかほかの大学では実現できないかもしれないですね。

纐纈 私は区立の錦華小学校から神田一橋中学校を経て、高校だけ新宿若松町にある成城高校に進みました。成城高校に入学したのは、中学時代卓球部に所属していて、その成績が良かったので、その縁もあってです。成城高校の卓球部の先輩に明治大学卓球部のキャプテンがいたので、明治大学に進学して卓球部に入らないかとも誘われました。 

 ただスポーツで大学に入学してうまく行かない例も見てきたので、運動部には入らず普通に受験して明治大学に入学しました。明治大学を選んだのは、商売柄明治大学の先生と父親がお付き合いがあったりしたことも影響していますね。

稲垣 私は駿河台の浜田病院で生まれ、幼少の頃から神保町で育ちました。その頃の思い出というと毎年一〇月一日の都民の日に、都電の花電車が走っているのがとてもきれいだった記憶があります。私の会社の前には都電の停留所(専大前)があって、人には安全地帯といわれていた壁が自動車には大敵で、ぶつかる事故がよくありました。

 子供時代の遊び場は白山通りと専大通りの間の場所で、「追いかけかくれんぼ」という遊びが好きでした。どんなふうにするかというと、たとえば神保町二丁目のビルの影や自宅の隣にあった地下の防空壕等に隠れながら、大人の下駄を履いてバタバタと音を立てて、逃げ回ってかくれんぼするんですね。先程言いましたように、白山通りを越えて明治大学方向に行くのは結構冒険でした。それで白山通り、専大通りを渡ってはいけない、というルールをつくっていました。

 小学校は地元の西神田小学校、中学は神田一橋中学校です。そして高校も地元でと考えて明治大学付属明治高校に入り、明治大学に進学しました。

──石澤さん、纐纈さん、稲垣さんはほぼお生まれから大学入学まで、神田界隈の中で通学されている時期が長かったわけですね。一方で校條さん、船曵さんは、お生まれはこの周辺ではないですよね。

校條 私は岐阜県の徹夜踊りで有名な郡上の出身で、岐阜県立郡上高校を卒業しました。なぜ明治大学を受けたかというと、星野仙一なんです。私は小学生の頃から中日ドラゴンズの大ファンです。ジャイアンツV9全盛の時代、ジャイアンツに立ち向かっていたのは星野仙一で、高校生の私は単純に、星野の後輩になりたいと思ってしまったんです。

それに加えて、当時聴いていたのが文化放送の深夜放送「セイヤング」です。パーソナリティは落合恵子。明治大学出身の”レモンちゃん”のラジオをずっと聴いていて、彼女の後輩になりたいとも思ってしまったと。それだけで明治が私のなかでナンバーワンになってしまいました。

高校時代遊んでたものだから当然のように浪人しました。郡上高校では上京する生徒がそんなに多くありません。名古屋に行くか、京都・大阪に行くというのが多いんですけど、一も二もなく私は上京することを決めました。

浪人時代は代々木ゼミナールに通いました。郡上高校から明治大学の経営学部に現役で受かった同級生がいまして(現在、公認会計士で、「明大公認会計士会」の会長を務めている)、彼は一年生で私は浪人生だったんですが、一緒に神宮に通ったりして、校歌を全部歌える浪人生になりました。勉強が少し疎かになった面もありましたが、晴れて明治大学に入学できました。

船曵 私が進学する時代には明治大学には、”おしゃれで格好いい大学”でしたね。親世代からすると何を言っているのかと思われるんですけど、我々の世代からするとオープンキャンパスの会場はリバティタワーなんですよ。私の実家は栃木・鬼怒川温泉の奥の川治温泉です。山奥でコンビニもなければ猿が歩いているようなところです。東京のど真ん中の御茶ノ水、それもこんなおしゃれなキャンパスで大学生活を送れる。なんて素晴らしいんだ、という田舎者精神があったわけですよ。先程の校條さんではないですけど、私は井上真央が大好きだったので、井上真央の後輩になりたい、という理由で明治大学を選んだんですね。

校條 それはいい動機です!

船曵 その時はまだ山下智久も北川景子も在学中でしたから、その大学がおしゃれでないわけがない、という思いがまずありましたね。

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