学芸研究室から(第16回)【刑事】人相書
皆さんは江戸時代の人相書をご存じでしょうか。時代劇の中では、容疑者の顔を描いた人相書などが出てくることもありますが、似顔絵の描かれた人相書というのは後世に作られたイメージです。では、実際に江戸時代の人相書とはどのようなものなのでしょうか?それを確かめたい人は、明治大学博物館へお越しください。刑事部門の「江戸時代の法と刑罰」のコーナーに江戸時代の人相書が展示されています。
江戸時代の基本法典といえる公事方御定書は、人相書について、「人相書を以御尋に可成もの之事」(人相書をもって捜索をすべきものの事)として、「公儀江対し候重キ謀計」、「主殺」、「親殺」、「関所破」(幕府に対する重いはかりごと、主人殺し、親殺し、関所やぶり)をあげています。人相書は幕府が全国に触れ流します。なお、大名の求めによって幕府が人相書を出すという事もありました。そのように全国規模で逃亡者を探索すべき犯罪として、幕府に対するはかりごとや関所やぶりがあげられているのは、比較的理解しやすいでしょう。一方で、殺人というくくりではなく、主殺、親殺という特定の対象への犯罪が人相書の対象になっていることを、不思議に思う人もいるかもしれません。江戸時代の刑罰体系では、目上の者への犯罪はより重い罪に設定されており、人殺の中でも主殺、親殺はより重い罪にあたりました。
さて、公事方御定書にも定めがあるこの人相書ですが、江戸時代に実際に出された人相書の一つが常設展示室に展示されています。ここには、「当正月十八日夜三十間堀二丁目国次郎店権四郎并同人倅豊三郎娘美代を及殺害候体ニ而欠落致シ候召使惣七人相書」と書かれています。すなわち、権四郎とその倅豊三郎の娘美代を殺害し逃亡した召使惣七の人相書です。この展示品のように江戸時代の人相書は似顔絵ではなく、文章で身体的な特徴が示されます。惣七の特徴を、「年齢二十五歳よりふけ候方」、「中せい(中背)中肉筋骨太き方」、「顔丸き方ニ而頬骨高く頬こけ候方」などと書き上げています。人相書の最後には、見つけた時にはその場所にとどめ置いて代官や領主などに報告をするように、隠しおいてはならないといった事が記されています。公事方御定書では、人相書のお尋ね者を、それと知りながら囲い置いたり、召使などにして訴え出なかった場合は、「獄門」(斬首の上で首を獄門台の上で晒す刑罰)と定めています。
日比佳代子(ひび かよこ/刑事部門担当学芸員)