学芸研究室から(第9回)【考古】明治大学記念館前遺跡の胞衣(えな)容器
博物館常設展示室入口の導入展示コーナーでは、駿河台キャンパスのリバティタワー建設時に発掘調査された明治大学記念館前遺跡から出土した土器や木製品など、江戸期の考古資料を展示しています。
多くはごみとして捨てられた状態で出土した日常生活の道具類ですが、そのなかで唯一祭祀に使われたものがあります。直径20㎝ほどの素焼きの土器が2枚合わせ口になった“胞衣皿(えなざら)”と呼ばれるものです(写真1)。
“胞衣(えな)”とは、妊娠時に子宮内につくられる胎盤のことです。胎盤を通して母体から胎児へ栄養や酸素が送られ、また有害物質を防ぐフィルターの役割ももつなど、胎児の成長に必要不可欠な器官です。現代の産院での出産では産後すぐに回収されるためほとんど目に触れる機会がありませんが、自宅での出産が主であった近代まで胞衣は一般の人々の手によって処理されていました。
妊娠15週ころから5か月以上胎児を守り包んできた胞衣を、古代から近世にかけての人々は大切に扱っており、容器に入れて埋める胞衣埋納を行ってきました。縄文時代から存在するとする意見もありますが、胞衣はすぐに腐朽してしまい確認は困難であることから、確実なのは平安期の文献と同様の例が確認できる奈良期以降と見られます。室町期ころまでは貴族や武士など限られた層でのみ行われていましたが、江戸期に入ると一般層にまで胞衣埋納の風習が普及しました。
布や桶に入れられることが多く地中で残存しにくいため考古学的に検出される例はまれですが、明治大学記念館前遺跡では「かわらけ」とよばれる素焼きの土器を用いた20例がまとまって出土しており、胞衣埋納の良好な事例として知られています。いずれも直径18~20㎝程度で高さ3~4㎝ほどの大きさの皿状の土器を2点使い、上の位置になる土器を逆さにして口縁同士を合わせて蓋にして埋めており、近世の文献にみられる胞衣埋納と同様の方法がとられていました。中には何も残っていませんでしたが、20例のうち3例には徳利が一緒に埋められており、徳利に産湯を入れて胞衣とともに埋納すると母乳の出がよくなるとされた記述に合致します。
胞衣の埋納場所は人が良く通る場所、あるいは逆に人が通らない場所などさまざまだったとされていますが、この遺跡ではごみを捨てた地下室の使用が終わった19世紀ころに埋納されていました。複数例が集中する部分(写真2)は産所に使った部屋の床下や台所かもしれません。また、南北に間隔をおいて列状に並んで埋められていた部分は建物の軒下であった可能性があります。
胞衣は生まれてきた子どもの分身ともされ、ぞんざいに扱えば子の成長によくない影響があると考えられていました。胞衣を納める際には水で洗って清め、男の子は筆や墨、女の子は針など勉学や裁縫の上達を祈る品をともに供えたという文献の記述もあります。記念館前遺跡の胞衣皿は、子どものすこやかな成長を願う江戸の人々の思いを今に伝えてくれる資料なのです。
忽那敬三(くつな けいぞう/博物館考古部門学芸員)
【主要参考文献】
小川 望2001「胞衣処理2遺構と遺物」『図説江戸考古学研究事典』柏書房
近藤さおり2000「記念館前遺跡の胞衣」『明治大学記念館前遺跡』明治大学考古学博物館
島野裕子2010「胞衣にみる産と育への配慮:近世産育書における子どもと母の関係」『神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要』4-1
姚 明希・我部山キヨ子2014「日本の胎盤(胞衣)処理の歴史」『京都大学大学院医学研究科人間健康科学系専攻紀要 健康科学』第10巻