【座談会】神田学生街に暮らす②
界隈の思い出
鈴木 私ははじめて明治大学の建物の中に入ったのが、錦華小学校の時でした。正月に近所の子たちが、凧揚げするのにどこか場所ないかって明大が良いよっていう話になってね。
正月過ぎて子供が何人かで明大の屋上に上がって。どうやって屋上に上がったんだかもう覚えていないですけどね。当時はそれだけのどかだったということでしょう。今大学の中で凧をあげるなんていったら大変でしょうけどね。
──明治大学は塀がないですし、とくに旧記念館時代は、誰でも中に入れるという雰囲気がありましたよね。
この界隈で当時子供達が遊ぶとしたらどこになりますか。
大山 錦華公園ですね。
──確かにあそこで凧を揚げたら、すぐ木に引っ掛かっちゃいそうですね。
鈴木 錦華公園はある程度の広さしかないからやっぱり揚がらないんだよね。明大の屋上がこの界隈だと高い方だったから。
──凧は揚がりましたか?
鈴木 揚がりました。
渡邊 上の方は風があるから。
鈴木 それこそ、校歌の〽白雲なびく駿河台……で、記念館の屋上からずうっと皇居の方まで見えてたもんね。
──子供の頃旧記念館で遊ばれたというのは、やはり地元の方ならではのお話ですね。
渡邉 10号館ができる前、崖下に池があったじゃないですか。あそこに行っては、エビガニや魚を釣って遊んでいましたよ。
大山 えぇっ、何かいたの?
渡邉 あそこはよく遊びに行きました。寮みたいになっていた時ですね。
──池はいま大学の立体駐車場になっているところですね。10号館はもともと個人宅で、戦後になって企業の社員寮だった時期もありますが、その後明治大学が買い取って建物を取り壊し10号館になった経緯があります。
急斜面になっていて、下がコンクリートの建物で崖上が木造数寄屋風の家で、中でつながっている少し面白い建物で。
渡邉 絶壁でしたからね、上から入っていくと砂利道のアプローチがあってずっと急な階段があり、その下に池がありました。崖の上からは階段を下りる必要がありましたが、家の方から行くと階段を下りずにそのまま入れる。
大山 そんな遊び場があったのね。
渡邉 昔はね。
鈴木 あのあたりはうっそうと木が生えていて坂道が暗かったね。
大山 猿楽町とか明治の周りの駿河台は起伏があるのね。坂がいっぱいありますよね。
渡邊 私は鈴木さんのようには子供の頃から大学には入っていませんでしたが、明治中学に入学して、中高の行事には記念館は利用していました。
記念館の地下にプールがあったり、剣道場があったりしましたが、当時の私の目にも歴史を感じましたね。
鈴木 何しろ真っ暗だったよね。プールもあまりきれいじゃなかった。
大山 部室が並んでいるところがあったでしょう。おとこくさかったね。
渡邊 中階段っていうのがありましたよ。途中で金属製の階段を上ってくといくつか部室がある、航空部とか軽音楽部とかある一角に、私が学生時代所属していたマンドリンの部室がありました。
鈴木 この階段行くとどこへ出るんだろうとか思いながらあの建物を巡るのが、謎めいた面白みっていうのがあったような気がしますね。
──大山さんは、ご結婚でこちらに来られたわけですが、お聞きになった昔の話などお聞かせ願えればと思います。
大山 自宅は神保町3丁目にあります。最初言いましたように、夫の実家は活字の工場を営んでいて、それは夫の曽祖父の代からはじめたそうです。
それを戦後自動車の工場に鞍替えしました。その工場はすでに手放してしまいましたが、その隣にある築80年以上になる自宅に変わらずいまも住んでいます。
──ご自宅は戦前の建物ということですか?
大山 はい。祖父からは、戦時中空襲があると専修大学にあった防空壕に避難したという話も聞きました。
鈴木 うちの方は、今の愛全公園のところに防空壕がありました。そこが戦時中は、農林省の分室になっていて、その地下にある壕に逃げたと親が言っていました。