【座談会】神田学生街に商う④
明治大学在学中の記憶
──皆様の学生時代の思い出をお聞かせくださればと思います。
石澤 私は体育会の所属ではないんですが、学生時代はよく体育会の学生と遊んでいました。体育会の仲間と一緒に新宿にご飯を食べに出る。でも、みんなお金をあんまり持っていないんですね。だからめいめい質屋に行って時計を預ける。「これで三〇〇〇円できた」「こっちは四〇〇〇円になった」とお金を集めて飲み屋にいく。体育会の連中がみんな来ていて飲んで相当出来上がっていて、周りに絡むようなのもいて、私がやったわけではないのに、なぜか私が文句をいわれたりね。いろいろありましたけどすごく楽しかったですよ。
終戦直後、明治大学バスケットボール部の監督を務めて、日本協会の理事も務めた阿部敏一郎さんは私の先輩で、長いお付き合いをさせていただきました。阿部さんをはじめ、いろいろな方々とお付き合いがありました。
私自身は自動車がとても好きでした。高校時代の一九五二年(昭和二七)に自動二輪の免許、四輪の免許は大学在学中の一九五六年に取りました。高校から大学に進む頃、スバル360は自動二輪の免許で運転できました。
卒業してからの話になりますが、神保町三丁目町会の大山惠子さん(座談会「神田学生街に暮らす」参照)のご主人が明治大学の出身で自動車部のOBでした。彼は私のすぐ下の弟と明治大学の同級生であり親しい友達で、よく知っていました。その彼と日本アルペンラリーに出場しました。第二回(一九六〇年)から第四回(一九六二年)くらいまで一緒に出ましたね。岩がゴロゴロしている道を乗用車で走るんですから、「死ぬかもしれない」なんて思いながら走っていました。若い頃のいい思い出です。
纐纈 大学では公益企業研究をやっておられた北久一先生のゼミナールで、黒部川第四発電所ができる前にみんなでヘルメットをかぶって見学に行ったり、ゼミの発表会で博多に行ったりしました。
サークルは二年生の頃から社会学研究部に所属していました。年に一回農村調査に行きまして、最初は伊豆、次が岩手の繋、あと岡山の中国勝山。調査に行くための準備を年間するんですね。その間につながりができて、ハイキングに行ったりするグループもできました。
僕が自慢できるのは大学でクラスの付き合いが濃かったことです。コロナでここのところ中断していますけど、三七会というクラス会を紫紺館で毎月やっています。「三七会」というクラス会を紫紺館で毎月やっています。三七会というのは卒業年から来ています。
その時のクラス委員長の音頭取りで、岸内閣による警職法に反対するデモに、日比谷の外濠公園に出かけて参加した経験はいまも鮮烈に残っています。三七会には、その時のクラス委員長も定例で参加し旧交を温めています。
──この頃はまだ先生も学生も仲良く一緒にデモに行くような時代です。稲垣さんの時代あたりになると、大学がロックアウトされたりして、サークルに入っていないとなかなかクラスメートとは付き合いがなくなってきたりするんじゃないでしょうか。
纐纈 私と同年輩あたりに聞いても、大学でクラスメイトとずっと付き合いがあるなんていうのはめったにないんじゃないでしょうか。私たちは一年生のとき生田キャンパスに三ヶ月だけ行っていたんです。四、五、六月と経営学部の学生は、兵隊さんが勉強していたような木造の建物に入りました。休み時間も軟式野球部が使ってたボールを拾ってきてグラウンドで野球をやったりなんてしていたんですよ。そういうこともクラスの結束につながったのかもしれません。
校條 なんで三ヶ月も生田に行ってらしたんですか。
纐纈 経営学部の学生を駿河台に入れる余地がなかった。
──経営学部は最初生田キャンパスに置かれました。一九五八年までは一・二年生は生田で授業をしています。その最後の時代ですね。
纐纈 当時は雨の日に生田まで行くと靴がどろんこになっちゃってね。御茶ノ水に戻ってきて、晴れているとみっともなくてね。
校條 大学に近かったのに最初は一番遠くまで通っていた、ということですね。
稲垣 大学では法学部の刑事政策のゼミにいましたので、刑務所や少年刑務所を教授と一緒に見学にいきました。こんなところに入るのか、食事はこんなものなのか、ここはいやだなと思うところときれいで設備の良いところがあり、ここなら受刑者の更生に良い環境だな、などということを勉強しました。フランス語は篠沢秀夫先生に習いました。タレント教授で、当時よくテレビに出ていましたよね。
私が進学した時期というのはちょうど学園紛争が激しかった時代で、明大通りで学生セクトと警察とのせめぎ合いがあり、一年、四年の間は大学でロックアウトとなってしまって授業はほとんど受けられませんでした。授業中ヘルメットをかぶったセクトの学生が教室に入ってきて、教授を押しのけてアジ演説をしていました。
そんな時期でしたが、せめて部活動は頑張ろうと、奉仕活動と野外活動がメインのローバースカウト部に入り、積極的に参加していました。三年の時に日本や世界八七か国のボーイスカウト二万三千人が集まる第一三回世界ジャンボリー大会が日本の朝霧高原で開催されました。運悪く、期間中に台風が四八時間襲来してきて、参加スカウトは四八時間近くにわたって神社・仏閣・学校に避難しました。私は野営管理部として、外国スカウトのキャンプサイトやテントを二日間四八時間食事なしで寝ずに見廻り大会の成功を想い使命感にて管理をしました。今想えば若かったからですね。よくできたと思います。
また、日本と台湾との親善隊として、制服に日の丸をつけて台湾に渡り、現地の学生と交流しました。台湾のキャンプ地は厳戒態勢で、当時近くに蒋介石さんが滞在しており、銃を持った兵隊がキャンプ場入口に立っていて日本とは国情が違うことを実感しました。部活動のおかげで充実した学生生活を送れました。
校條 学生時代の生活の割合をいうと、山登りのサークルが六、ゼミが三、クラスが一くらい。サークルにどっぷり浸かっていた四年間だったので、あんまり勉強関係については話すことがないというのが正直なところです。それでもゼミは阪上順夫先生のゼミナールに入り、「学生の政治意識調査」をやって、その結果を読売新聞に毎年発表するという活動をしていました。あとは先程お話した「櫓」でバイトをして、それ一日が終わっていた感じでした。
ゼミナールだと、明治大学職員になった川口誠人君(現学術・社会連携部長)と新潟市長の中原八一君もゼミの同期です。いま政治経済学部教授になっている海野素央君がクラスメイトでした。卒業してからも纐纈さんと同じように、いろんな仲間と付き合いが続いていますね。それはやっぱり私が神保町で働いていて、よく大学に出入りしていることと関係しています。「母校の近くで働けてお前はいいよなあ」と言われることがしょっちゅうです。
──幅広いご交流が窺えますね。
船曵 皆さんと少し違う経験を私はしておりまして、実は私は二回明治大学に入学しています。最初大学で何を学べばいいのかわからなくて、入学して半年で一回大学を退学してしまったんですね。その後再入学試験制度を利用して入り直しました。その面接試験のときに、面接官の先生からかけられた言葉が忘れられません。
「再入学するまでの時間は無駄かと思ったかもしれないけど、明治大学に再入学してもう一回いろいろな刺激を受けて学んだら退学しないでただ四年間学ぶよりずっと大きな学びになるよ」という言葉をいただいて、それは今でも耳に残っています。実際そのあとの四年間は勉強もサークル活動も本当に楽しかったです。
サークルの話は先程少し話しましたが、学びだと私は千田亮吉先生のゼミナールに所属していました。千田先生はいまもご活躍で現在副学長でしたね。千田ゼミの良かったところは必ず論文を書く習慣があったことです。二年生でも三年生でも四年生でも必ず一本ずつ論文を書くんですよ。論文を書くために、どのようなプロセスを踏めば良いのか学んだことは社会に出てからも役に立ちました。
いま、現役の学生さんたちの相談に乗ったり話すこともあるんですけど、卒論を書いている学生さんにあまり出会ったことはありません。下手をすると論文を書かずに四年間を過ごすんだろうな、きっと役に立つのになと、少しもったいないなと思います。
自分が経営者の立場になってみて、改めて経営学の勉強もしているのですが、この本に書いてあることはどこかで聞いたことがあるな、と思い返してみると、それは全部明治大学商学部で学んだことでした。経営者になりたければ真剣に大学で勉強すればきっと役に立ちます。もう一度大学で学び直したいくらいです。
──大学の人間としても大変力強いお言葉をいただきました。ありがとうございます。