【座談会】神田学生街に暮らす①
日本最古で最大の学生街・神田ー
現在、明治大学博物館では、成長と変化を続ける神田学生街のさまざまな〈いま⇔むかし〉をめぐって、展示室とSNSなどオンライン空間とを駆使してご紹介しています。
連動企画として、神田学生街と深い関わりのある校友に、街と大学への思いを語っていただきました。
座談会出席者
・鈴木宏昌氏
(1943年生まれ 1965年政治経済学部卒 神西町会長
神保町地区連合町会長)
・大山惠子氏
(1943年生まれ 1966年政治経済学部卒 神保町三丁目町会役員)
・渡邉圭一氏
(1946年生まれ 1968年政治経済学部卒 神田猿楽町会長)
聞き手 大学史資料センター
──現在明治大学が所在する神田及び神保町界隈で生活され、ご商売をしておられる皆様から種々お話を伺う機会を作っております。
今回はとくに明治大学ご出身で、この界隈で暮らし、ご商売もされていた町会役員の方々にお話を伺うことにいたします。それぞれ自己紹介を一言お願い申し上げます。
鈴木宏昌(以下鈴木) 私は神田神保町で生まれて現在まで暮らしています。2013(平成25)年まで、甘味屋「めんとく(綿徳)」を営んでいました。現在神保町の神西町会長・神保町地区連合町会長をつとめています。
大山惠子(以下大山) 私は神保町3丁目町会の婦人部長をつとめています。私は中央区の生まれなのですが、結婚して神保町に住むことになりました。神保町で自動車修理工場(大山電気工業株式会社 大山自動車整備工場を営む)を営んでおりました。夫も明治大学の卒業生で自動車部のOBです。
渡邉圭一(以下渡邉) 私は神田猿楽町会長をつとめております。私もここの育ちです。三年前まで鰻料理店「川松」を営んでいました。
ご生業について
──皆様それぞれご商売をされていたということでございますが、少しそのあたりのことを教えていただけますでしょうか。
鈴木 戦前からの甘味屋でした。ですから戦時中や戦後直後は砂糖や小豆が手に入らず調達するのが大変だったといった話を聞きました。
また、ようやく闇で仕入れて洋服ダンスに隠していた砂糖を警察に没収されたといった苦労話もあったようです。
渡邉 私の母やきょうだいはめんとくさんの大ファンでした。近くに銀映座という東映のチャンバラ専門の映画館があって、その行き帰りに寄らせてもらいました。
鈴木 銀映座、懐かしいね。
大山 私は中央区の八重洲出身ですけど、私の周りは明治大学や共立女子学園に通っている人が結構いましたね。
十七番(都電17番系統 池袋駅前─数寄屋橋区間 1969年廃止)に乗っていけば良いから。都電が通っている頃は渋谷も新宿も池袋も数寄屋橋も全部都電で行っていました。いまは地下鉄に変わっていますね。
夫の実家はもともとは鉛で活字を作る工場でした。結構大きな工場だったようですが、戦時中に鉛を戦争で金属供出などしてしまって、戦後バッテリー等の自動車修理工場に変わったといいます。夫が亡くなり平成九年、工場を閉めました。
鈴木 活字工場は昔はこのあたりにいっぱいありましたね。活字鉛の贅片をポキポキ折るんだよね。
渡邉 活字工場は、千代田活字という会社などが明治大学10号館の近くにもありました。一帯は印刷屋、製本屋が多かったですね。
私の家がこのあたりに住み始めたのは祖父の代で、その後は須田町でいわゆる羅紗商をやっていました。この界隈に移って法服専門のテーラーになったという話です。
ただ服飾ではなかなか厳しいということで、1958(昭和33)年頃、羅紗の不況から鰻屋を営むようになりました。三年程前に店は畳みました。