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【座談会】神田学生街に商う②

印象に残る場所・風景・舗

──まずご出席者皆様が印象に残っておられる界隈の場所・風景・お店についてご紹介ください。校條さんは界隈の店についてずいぶんコラムを発表されていますね。

校條 「CHA われら茶柱探検隊」(株式会社WADE)というPR雑誌に、「かつて神保町にこんな店があった」というエッセイを書きました(「酔いどれ編集者の神保町日記 同誌第三六号─三九号所収)。ここで私は長良川龍一というペンネームを使っています。長良川というのは私の出身地の岐阜、龍一というのは中日ドラゴンズが一番、という意味です。「加賀亭みなみ」「ぱぶ アミ」「元祖 やぐら」「酔の助」「とんかつ いもや」「中華謝謝」「神田栄屋 ミルクホール」「伊峡」「さぶちゃん」などの紹介をしています。

 学生時代のことをお話ししますと、私は山岳サークルに所属しておりました。駿河台では、錦華公園でテント張りの講習会をやったり、この界隈の坂を利用したトレーニングをしたり。登山の用具は神保町の「さかいやスポーツ」でいつも購入していました。夏は合宿で北アルプスの縦走をし、それを終えると決まって錦華公園に帰ってくる。要はそこで酒盛りをするわけです。そうすると高揚感で明治大学校歌や応援歌を歌ったりする。若気の至りで近所に迷惑をかけたこともありました。

 錦華公園をくだったところに「喫茶店みなみ」があって、ここがサークルのたまり場になって、お店に荷物を置いたまま講義に出たり、麻雀をし行ったりしました。みなみが私たちのベースキャンプだったんですね。それがあるとき居酒屋「加賀亭みなみ」へと衣替えしますが、私はサークルの仲間ほか、いろいろな方と一緒にこの店に通い続けました。

 また「元祖 櫓」では大学二、三年バイトをやっていました。ホールで注文を取ったり、焼き鳥を焼いたり。お客さんには応援団や野球部の部員も来ていました。同じく居酒屋の「酔の助」もほぼ創業時から通っていました。「櫓」は二〇〇八年に閉店し、「酔の助」も「加賀亭みなみ」もこのコロナ禍で二〇二一年閉店しました。神保町界隈の行きつけの飲み屋がどんどんなくなっていくのは非常に残念でなりません。

──「櫓」は後年カレーが評判になったりしましたよね。

校條 ランチの「ホワイトカレー」が有名になりました。実は友人でカレー評論家の小野員裕君(元・横濱カレーミュージアム名誉館長)に、「櫓」でなにか出せないかと相談に乗ってもらって、ホワイトカレーができた経緯があります。バングラデシュから来たジアさんという方がカレーをつくっていました。

櫓(1982年頃)

──まさに八〇年代、日本の居酒屋文化が花開いた時期のお話ですね。

石澤 私は鰻の「神田川」さんとか、鶏鍋の「ぼたん」さん、蕎麦の「かんだやぶそば」さん「神田まつや」さんのような雰囲気のお店が好きですね。歴史のある神田ですから、ああいう店がこれからも残っていってもらいたいと思います。

──さすが江戸っ子という感じです。お店のある御茶ノ水周辺などはいかがでしょうか。

石澤 駅前周辺はみんな変わってしまいました。昔は御茶ノ水橋の上から、ニコライ堂、両国の花火もよく見えたものです。少し外堀通りを行けば東京タワーも見えたんですよ。東京タワーが出来たのは私が大学を卒業したのと同じ一九五八(昭和三三)年です。
 だから私は東京タワーがとても好きなんですが、高層ビル建築により見えなくなってしまった。一つの時代の流れですから仕方ないとも思っています。

纐纈 かつては富士山も見えました。それこそ九段の坂を上れば山容が全部見られましたよ。

石澤 いまは明治大学のリバティタワー高層階でしか見られない。

──お店の変化だけではなくて、高層化によってだいぶ風景が変わっていますね。

纐纈 私の大学時代は”飲む”というと駿河台周辺ではなくて新宿なんですね。西口の思い出横丁のバラックあたりです。

御茶ノ水界隈に飲み屋ができて賑やかになったのはごく近年で、それまでは病院に関係する果物屋、花屋、そして八百屋あたりが圧倒的に多かったんじゃないかな。病院も今よりたくさんありました。紫紺館が建っているところは、佐野病院という大きな病院だったりね。いまのアカデミーコモン付近は更地になっていてバッタを取ったり良い遊び場でした。

飲み屋というと、アミが開業した(一九五九年あたり)から徐々に増えてきた感じがします。最初はピアノのある喫茶店でしたが、お酒を出すようになった。神保町の「さぼうる」さん(TwitterInstagram、一九五五年創業)には若い頃からずっと入り浸っていました。ここも昔からお酒を出しています。

──かつては飲み屋ではなくて、病院周りのお店や生活のお店がこの界隈には多かったということですね。それが一九六〇年代あたりから飲食店も増えてきた感じでしょうか。

纐纈 当時から考えると随分多くの人がこの界隈を離れました。

稲垣 「さぼうる」さんは私も行きつけでした。私はもっぱらクリームソーダやバナナジュース楽しみにしていました。御茶ノ水の「レモン」さんにも行っていましたね。当社にほど近い神保町交差点の「新世界菜館」さんは、味・ボリューム・値段とも申し分なく、商店街連合会の新年会などでよく利用しております。
 神保町から飯田橋に移転してしまいましたが、餃子が有名な「おけ以」さんにも神保町時代、そして現在もよく通っています。

会社近くにある神保町愛全公園は、のちに中華人民共和国初代首相になる周恩来が学生時代学んだ東亜高等予備校の跡地です。ここには『周恩来ここに学ぶ』という石碑が建っていました。
 明治時代、神保町界隈は中国をはじめとするアジアからの留学生が多く学んでいて、神保町三丁目周辺は”中華の街”というくらいの状況で、すずらん通り界隈を凌ぐほど繁栄していたそうです。それから考えると今はだいぶ様変わりしましたね。

甘味では、新しいところで同じ並びにある「よねはく」さんがおすすめです。熊本のお餅屋さんが東京初出店されたお店で、熊本のお餅屋さんが東京発出店されたお店で、熊本を中心とした大粒のいちごが入ったいちご大福専門店です。
 よそのいちご大福とはいちごの大きさが全然違う。キウイやパインの大福もあるので、ぜひ召し上がってみてはいかがでしょうか。商店会の活動にも熱心にご参加いただいています。

──以前稲垣さんに、神保町三丁目界隈にお住まいの方は、神保町の交差点を渡って駿河台まではなかなか出歩かなかったと伺いました。

稲垣 私達はだいたい白山通りが境になっていて、白山通りから九段下の範囲で動いていましたね。子供の時分であればなおさらで、白山通りと専大通りを越えていくことは冒険でした。

──距離でいうと大したことはないですけど、子供の足で考えると大変ですよね。

稲垣 明治大学の方まで来ると「だいぶ来たな」って感じがしました。

──その距離感は地元にお住まいの方ならでは、ですね。

船曵 私は学生時代「アミ」に一番お世話になりました。テニスサークルに入っていて、最初先輩たちがお揃いのTシャツを着ていたんですが、そこに『やきにくライス』って書いてあるんですよ。和泉キャンパスにいた一・二年生の頃には、「この人達はなんのTシャツを着てテニスをしてるんだろう」と思っていたんですけど、三年生になって駿河台キャンパスに来たときに、ようやく『やきにくライス』が「アミ」のメニューだと知りました。
 食べて衝撃を受けましたね。それ以降九割方は「アミ」でランチを食べていたのが、駿河台キャンパスでの思い出です。ツイッターなどで二〇一五年に「アミ」が閉店すると知ったとき、私は当時転勤で高知県に住んでいましたので、とても駆けつけることもできず、ショックで仕事が手につかなかったことを覚えています。

 夜のお酒、ということになりますと、学生時代は新宿で飲んでしまうことが多かったですね。

──この界隈は大箱の飲み屋が少ないですからね。ランチ営業後の「アミ」か、居酒屋の「ぷら座」くらいでした。

船曵 神田・神保町でのお酒の楽しみ方が、その当時はわからなかったんですね。働くようになってやっと夜の神保町や神田を楽しめるようになってきた。「神田まつや」さんなどの蕎麦屋で飲む酒はこんなに楽しいのかということが最近わかりました。大和屋の打合せはだいたい「多幸八」さんでお酒を飲みながら行うので、最後の頃にはみんな記憶を失って、内容を全然覚えていないなんてこともよく発生しているんですが。楽しいです。

稲垣 実は「多幸八」さんは私の父が創業した店なんです。それを暖簾のれんごと譲りました。譲った方は以前「おけ以」さんに勤めていた方で、立派なヒゲがトレードマークのその方に暖簾とレシピを差し上げて店を引き継いでいただきました。お店はもう息子さんの代になりました。

船曵 そうなんですか!びっくりしました。料理もとても美味しいですよね。なかなか人気店で、お店に入るのは大変です。

稲垣 父が経営していた頃には、周辺の店の中でテレビを一番はじめに入れました。プロレス全盛の時代はみなさんがテレビを観たがって、大行列になったりしましたね。でも偉い人が来ても優先したりせず、地元の人を大切にしていました。子供の頃はお店の小上こあがりで、お客様と一緒に夜遅くまで「忠犬ハチ公」等のテレビを泣きながら観ていました。

纐纈 我々の仲間とも随分行きましたよ。いまのお店とはだいぶ様変わりしているよね。場所も変わったしね。

稲垣 メニューは当時とはだいぶ変わりました。昔は山盛りの肉の牛めし、小骨を抜く手伝いをしていた自慢の〆鯖、焼き鳥とか。中華そばの出前もしていたり、季節の料理にお酒は受け皿までこぼしてあげていたのでお客様には好評でした。築地に仕入れのため父のオートバイで行っていたのですが、冬の明け方の寒さで体がかじかんでいたのが思い出されます。店の看板はタコの絵で目が光るのが有名でした。

左:多幸八(昼間外観) 中央:夜外観 右:テレビ

纐纈 いま「アミ」の話が出てきましたが、「アミ」から降りていったところに、「ジルベール・ベコー」だったか喫茶店がありました。また御茶ノ水交番横に「ジロー」が出来た。このあたりの喫茶店ができはじめてから御茶ノ水周辺に飲食店が増えたように思います。街が病院関係の非常に狭い範囲だったのが、一般の方が出入りできるお店が増えた感じがしますね。空き地もなくなってしまったけど。

石澤 変わりましたね。喫茶店でいうと「ジロー」もそうですが、名曲喫茶の「田園」や「丘」というのもありましたね。

校條 私たちの世代が「田園」や「丘」のあった最後の世代かな。

纐纈 「酔の助」のあった場所も、もともと喫茶店が入っていたよね。居抜きではじめたんだよね。

校條 私が昔アルバイトをしていた「元祖 櫓」で、私の入っていた山のサークルで飲み会をしたんですが二〇人でビール一一〇本飲んだ記録をつくりました。一人平均ビール五本です。私がまだ和泉の頃だったと思いますが、お金が足りないからと先輩が学生証を店に置いていったんですね。「櫓」のマスターは顔なじみですから”お前らしょうがないな”、という感じではあったんですが、いまから考えるとだいぶ迷惑なことをやりました。ただ街の許容範囲が広かったと思います。そういう雰囲気が街からだんだん消えてしまっている感じはしますね。

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