【座談会】神田学生街に暮らす④
大学時代の学びと余暇
──大学時代のお話を伺いたいと思います。
鈴木 私は政治経済学部に進学して、大塩亀雄先生(経済地理学)のゼミに入りました。サークルは、社会学研究部に所属していました。
纐纈公夫さん(大屋書房三代目店主 「神田学生街に商う」参照※記事のURL入れる)と同じサークルだったんですよ。
いわゆる農村漁村社会学で都市社会学ではないんですよね。地域によって風習とか考え方とか土地の結びつき方、今で言うコミュニケーションの取り方とかを研究していたんです。先生としては蒲生正男先生、祖父江孝男先生から指導を受けました。
──蒲生先生は、近所の徽章屋さんのお生まれだったという話ですよね。大山さん、お願いいたします。
大山 夫の関係からいいますと、夫は大学の時は自動車部に所属していました。卒業後もずっと自動車部と付き合いが続きました。
OB会の結束がすごいんですよね。富士吉田の明治の合宿所などで行われた自動車部のいろんな合宿にも、卒業後にも家族で参加しました。いま主人が亡くなっても同期のOBの方が連絡を下さいます。
──自動車部に入られたのは、お連れ合いのご実家が自動車の工場をされていたことと関係があるんでしょうか。
大山 そういうことでもないように思います。夫は家業とは関係なく車が好きだったんでしょう。夫は卒業してから工場に入り、整備士の資格をとりました。
私は一、二年が和泉校舎でしたのでクラブの集まりの時に本校に来るくらいでした。三年で駿河台に来て10号館がとてもきれいだったことが印象に残っています。
渡邉 モダンな建物だったですよね。
大山 素敵な建物で、テラスはタイルを使ったりなんかしてましたね。それが卒業してしばらくして見るとだいぶ傷んでいて、少し寂しい感じになってしまいましたが、とにかく10号館の建物が素敵だったなって印象がすごく強いですね。
渡邉 クラブの練習の音が聞こえてきたりしてましたよね。
鈴木 ゼミなんかもあそこでやってましたね。
大山 なぜ明治を受験したかというと、高校時代に新聞部や学校新聞に触れて、マスコミに興味を持ったことに始まります。まだマスコミなんて言葉は定着していなかったですけど。
女性がどうやって働くかなど今もいっていますが文化祭などでそういった話を聞いたりしているうちに、じゃあ大学に行って学んでみようかと思いました。親に話したところ「受かればどうぞ」ということでした。
──岡野加穂留先生の政治学ゼミに入られたんですね。
大山 三年ゼミは必修ではありませんでしたけれども入りました。岡野先生はまだ助教授くらいでした。
女性のゼミ志願者は私が初めてだったそうですが、学ぶ者に女性も男性もないなんておっしゃってくださって。政治経済学部はあの頃十八クラスあったとお見いますがその五クラスくらいが政治学科でした。その中に女性は私を含めて五人くらい。体育の授業は文学部の女性と一緒に受けました。